取材記事

【戦後70年】「戦争はやってはいけない」と言い残しておきたい 〜終戦後の大阪(千人塚)〜

前回の記事では、初めての大阪大空襲から終戦までの軌跡を書きました。

今回の記事では、終戦後の大阪にフォーカスを当て、冊子をもとに当時の出来事を書かせていただきます。
東浦さんは当時16歳でした。

もし、まだ読んでいない方がおられましたら、
【戦後70年】ただ、生き続けることに必死でした 〜大阪大空襲から終戦までの記憶を辿る〜
こちらの記事からご覧ください。

■遺体の処理が始まって

私は20歳未満ということで作業に誘われませんでしたが、バラバラになった遺体はどこの誰か識別できないものもあり、何体かは数えられない状態でしたが、約1000体以上はあったかと言われています。
家屋疎開で無人になった家の廃材などで田毘にふし、その後河川敷にお骨を埋めるなどして、1000体以上を処理するのに3日間かかりました。大変な作業でした。私がやらねばならないことは、「戦争はやってはいけない」と言い残しておくことだと思います。

■千人塚前での法要

毎年6月7日、10:30からお坊さんに読経してもらい、参加者が焼香を捧げ、その後それぞれの戦争体験や当時の思い出話をしてもらっています。
戦後マッカーサーの統治下では、法要は反米運動になると止められた時期もありました。今でも私はアメリカが機銃掃射をやったことは絶対に許すことができません。
そのような色んな思いを6月7日に集まった人たちで話し合ってきました。
千人塚は法要のシンボルなので来ていただいて掃除をしていただいたり、お花を手向けてもらったり、手を合わせて亡くなられた方を祈っていただければ大変ありがたいです。
小学生は千羽鶴を持ってこられたりします。一昨年から午後に能楽(芸能)が奉納されるようになりました。

■松山城北高女のみなさんとの再開

当時、松山から城北高女の生徒さん150人が学徒動員で来られていて、赤川の三井住友銀行の隣にあったアパートを借りきって寝泊まりし、天神橋筋六丁目の辺りで極秘で風船爆弾を作っておられました。
6月7日は先生の引率で河川敷に逃げて来られました。赤川のアパートが焼けてしまったため、下味原や元松坂屋の辺りを転々とされましたが、先生の判断で全員無事、松山に帰ることができました。
戦後、松山は松山で法要され、こちらはこちらで法要していたのをお互い知らなかったのですが、数年前から城北高女の卒業生の方が千人塚法要にも参加されるようになりました。

■さいごに

慰霊法要は今でも遺族の方々20名ほどが参加されますが、空襲を生き延びた人たちも恒例になってきました。私も今年で86歳になり、例年通りの慰霊法要を行事として執り行うことがいつまでできるかわかりません。
今年の慰霊法要は戦後70年目の節目となります。
まだまだ、大阪で起きた戦争の悲劇を後世に伝えていきたいと思っており、できる限り慰霊法要を続けていく所存でございます。

■編集後記

ひしひしと伝わってくる戦争に対しての恐怖、何とも言えない感情、そして民間人を標的に爆撃したアメリカに対しての怒り・苛立ち。
体験者にとっては、70年経っても鮮明に記憶として残り、今も苦しみに悶えることもあるのではないでしょうか。
私は戦争経験者ではないので、戦争というものがどれだけ悲惨なものか、を写真や映像、声を通してでないと知ることができません。
戦争体験者の方のお話を聞いても口々に出るのは、「もう二度と戦争をしてはいけない」という言葉。
こんな悲惨なことになると知っていたにもかかわらず、なぜ戦争が始まってしまったのか、それを止めることはできなかったのか、を改めて考えていく必要性があると思いました。

日本だけでなく、様々な国々がそれぞれで反省する部分があり、その反省から次の行動に活かしていかねばなりません。
今はまだ、充分に反省されているとは言い難いと思っています。「失敗の本質」から逃げずに、この問題には向き合っていかねばなりません。

みなさんで平和を作っていきましょう。

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