取材記事

【戦後70年】ただ、生き続けることに必死でした 〜大阪大空襲から終戦までの記憶を辿る〜

太平洋戦争が終戦してから昨日でちょうど70年です。

6月7日、千人塚慰霊法要にて、戦争体験者を毎年150人ほど集め、体験者として戦後生まれの人にも戦争を伝えていくことを行っている東浦栄一さんより、70年前の大阪大空襲、千人塚の様子をまとめた冊子をいただきました。

そこに書かれていたことは、紛れもなく私がみなさんに知って欲しい本当に70年前に起こっていた出来事です。
冊子をもとに、その当時の出来事を書かせていただきました。
1人でも多くの方の読んでいただきたい内容になってますので、ぜひご覧ください。

これは紛れもなく過去に行われた真実です。
東浦さんは当時、16歳でした。

■1945年6月7日のこと

今から70年前の6月1日に港区で大空襲があり、6月7日は大阪の東北方面で空襲がありました。(一説によると大阪砲兵工廠を狙ったのが少し北側に落ちたそうです。)
B29が409機も編隊で飛来し、ノースアメリカンP51ムスタング戦闘機も138機やって来て空は真っ暗になりました。この日、米軍には市街地への焼夷弾攻撃と大阪陸軍造兵廠への通常爆撃攻撃との2つの目的があったとされています。
市街地への攻撃は民間人を巻き込むため、国際法違反です。空襲は朝10時くらいから始まりました。焼夷弾というのは、長い棒状の物に布状のものが巻いてあってぼろぼろになって燃えながら空から落ちてきました。

最初は砂をかけて防火活動をしていましたが、煙で窒息しそうになり、建物のない所へ逃げようと城北公園へ行きました。途中で1トン爆弾が落ちると目と耳をおさえ、地べたに伏せなければいけません。
数回ぐらい足止めされ、ようやく公園に着き、そのときには機銃掃射は終わっていました。

当時、四国から学徒動員で兵器や軍服を作りにたくさんの女子生徒が今のベルファの辺りに来ておられましたが、先生に引率されて城北公園に避難して来られました。米軍は低空飛行で木の下に隠れている人も機銃掃射するので、たくさんの方が亡くなられました。1000人以上が亡くなられていました。
実際には肉片が木に引っかかっていたりして何体と数えられるような状況ではありませんでした。私たちが逃げて行ったのは、その後のようです。
さらに逃げようとすると遺体をまたがねばなりません。遺体をまたぐのは今までになかった経験です。公園に池があり、その真ん中の橋に焼夷弾が落ちました。薄暗い中で橋が燃え尽きる姿はマムシの舌がベロベロしているようで、この世の地獄さながらでした。
池の中に落ちた焼夷弾は池の中でブクブクと火を発していました。次に爆撃されたら逃げようもないと思っていたら解除になりました。やっとのことで帰宅すると、家も工場も焼けずに残っていました。
負傷した人がいっぱいいて、脱脂綿をあげると当時は貴重な物だったのでとても喜ばれました。亡くなった人が戸板で家の中まで運ばれてきました。
韓国の人でお母さんと女の子が泣いていました。私たちにはどうすることもできず、頭をさげるのみでした。韓国人からすれば「(自国の戦争ではないのに)なぜこんな目に遭うのか?」と理不尽な思いだったことでしょう。

私の妹は学徒動員で扇町辺りへ働きに行っていましたが、地下に逃げ込みました。地下室が熱くなってきて、女学生がパニックに陥り、「逃げよう!」と言うのを引率の先生が「逃げてはいけない。」「一緒に死にましょう。」とおっしゃってくださったので助かったそうです。外に出ると一面焼け野原。
「家に帰りなさい。」と先生に言われ無事、家に帰ってきました。一時はもう死ぬかと思い、自分が死んだら親はどう思うだろうという気持ちでいっぱいだったようです。
3時くらいに少し落ち着いてお茶漬けを食べながら涙を流したのを憶えています。普通ならこんな悲惨なことの後では食べられないものですが、その頃は年中空腹で食べられるときに食べておこうという気持ちでした。
人が死んでいく中で食べられたのは人間でなくなっていたのかしれません。16歳の私はただ生き続けることに必死でした。

■終戦まで

大阪にはこうした爆撃が8回あり、8月15日の玉音放送で終戦となるのですが、その前日の14日に砲兵工廠に爆撃がありました。
日本はこのときすでに、ポツダム宣言を受け入れ、終戦の決意表明をしていたというのに…。砲兵工廠だけは爆撃しておこうということだったのでしょうか。京橋駅前の南側も爆撃され、議員をやっておられた方が8月14日は京橋の辺りで警報が鳴り、避難場所に行ったときには人がいっぱいいたそうです。
ガード下や駅南側の待合所も人で溢れていて、「お前、出て行け!」と言われたそうです。そこへ、1トン爆弾が落とされ、待合所を直撃しました。半径20メートルほどの焼け跡は穴ぼこができ、その後、池になりました。
中崎町横の池も長い間残っていました。城東区にはまだ1トン爆弾の不発弾がいっぱい残っているようです。

■編集後記

文中にも書かれている通り、民間人への市街地攻撃は国際法に違反しています。70年前のアメリカはそのような悲惨な爆撃を行っていました。

「なぜ、民間人を巻き込むような悲惨な爆撃が行われてしまったのか」、「なぜもっと早く戦争を止められなかったのか」、「そもそもなぜ太平洋戦争を始めてしまったのか」

様々な観点から考えていく必要があります。

ここに書かれている内容は、数ある中の1つの出来事ですが、戦争とは「人の綺麗な心を奪うもの」であると私は考えています。

次の投稿では、終戦後の千人塚について、記事を書きます。
そちらもぜひ、ご覧ください。

■参考ページ

大阪大空襲
http://www.geocities.jp/jouhoku21/heiwa/o-kuusyuu1.html

大阪砲兵工廠
http://ndl.go.jp/scenery/kansai/column/osaka_army_arsenal.html?JUMPPAGE=ADVERTISE

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